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痛みをゼロにする奇跡の治療法を発見するまでのストーリー

人生の転機

スーパーメディカルジャパン 代表の齊藤 徳男です。

私は高校卒業後、鉄道関係の会社に就職しました。

病気一つすることがなく、健康な体が取り柄で、勤勉に勤務を続けていましたが、ある人との別れをきっかけに9年間勤めた会社を退職しました。

 

その後は今後の人生の模索が続き、様々なチャレンジをしましたが、自分の力を試したいという気持ちが強く、地元の秋田から遠く離れた九州鹿児島で生きていくことを決断しました。

自分の事を誰も知らない土地で、自分の実力、努力で結果を出したい!という気持ちから営業職を選択しました。

 

とにかくがむしゃらに働き、2年目には成績トップで表彰もされるまでになりましたが、気づかないうちに体が悲鳴をあげていたのです。

慣れない環境の中でのハードワーク、不規則な生活リズム、外食中心の食生活などで、10円ハゲが出来たり、精神的に不安定になっている事を自覚することもありました。

 

そんな生活の中で、風邪とは違う体の異変に気づき、大きな病院にいったのですが、医師が診察で目を剥いてチェックするなり、即入院が言い渡されました。

病名は急性肝炎。初めての入院でした。

その後、病気は治ったものの、いざ出勤しようとすると、意志とは裏腹に体が会社に向かわない。

何度も同じ症状が出て、体が会社に行くことを拒否していることを悟りました。

 

このあと、また別の医院で診察をうけたところ精神病の一つ「心身症」と診断されました。

そこからは、内心では焦りを感じつつも、体のだるさが抜けず、やる気も起きない、ただご飯を食べて、犬の散歩をするだけの日々が続きました。

 

そんな中、親切にしてくださっていた方から、「整骨院で体でも揉んでもらったらいいよ!」と勧められ、体だるさが少しでも紛れるならという気持ちで整骨院に出かける事にしたのです。

当時の私は整形外科は知っていたものの、整骨院の存在すら知りませんでしたが、中に入るなり、私の体に電光石火のような衝撃が走りました。

 

直感的に先が見えた。これが私の天職だと感じたんです。

自分の生活の糧となり、何より人様のために働くことができる!

 

そう感じた私は、恥も外聞もなく、すぐに先生にどうすればこの仕事ができるのかを聞きました。

そこで、専門学校に3年通い、国家試験に合格すれば整体の仕事に就けるという事を教えて頂き、居ても立ってもいられなかった私はその2週間後に上京し東京の柔道整復師の専門学校に通いました。

 

その後、3年で学校を卒業し、無事に柔道整復師の国家資格を取得することができました。

それから開業準備をして、念願の整骨院開業。

この時点で私は33歳になっていました。

人生の遅れを取り戻そうという気持ちが強く、経営の事はわからかったものの、営業職の時と同様、試行錯誤しながら、がむしゃらに取り組みました。

 

思い通りにならない治療家人生

私の治療家人生は順風満帆と呼べるものではありませんでした。

当時を思い出すと経営の困難さや自分がやりたいこと、治せる治療家としての勉強など、数多くの課題がありプレッシャーで押しつぶされそうになっていました。

従業員を入れたときからキャッシュフローだけの問題ではなく、人間関係の問題も発生し、日々の忙しさに追われ打開策を見出せないまま、眠れない日々も続きました。

治らないものは、治らないと諦め、事務的に作業をこなし、理論だけが先行する言い訳めいた言葉だけが上手になっていくのです。

 

いつの間にか治療が事務的になり、そして治すことを諦め、いつしか患者さんのなぐさめ上手な先生になっている。

でも、それに徹すればいいのです。

 

医師も治せないのだから私たちが治せるはずが無いとあきらめて、病院、治療院の経営をしていればいい。

当時は、そのように考えるしかなかったのです。

 

開業して7年が過ぎるころ、治してもらいたい一心で来院してくる患者の腰を揉みながら、来る日も来る日も同じことをやっている自分がいた。

いつしか世間話で治療が終わってしまう毎日に体が慣れていく、繰り返し治療をしても治っていかない、何も出来ない無能な自分が嫌になったこともあります。

 

そして現場を離れ治療院のオーナー業をしたこともあります。

今、考えると逃げ道だったのです

 

柔道整復師専門学校にいるときは治せる治療家を目指し、病気を極めたいと夢を描いていたものですが、思い通りにならない治療家人生にいつしか逃げ道を探っていたのでしょう。

 

そのようなモヤモヤを抱える中でも、店舗数も4店舗にまで拡大し、従業員は26名にまで増えました。

順調にいっているように思っていましたが、いつしか経営の弱い部分が露呈していきました。

思えば、経営の勉強もしない自分が長く続くはずはなかったんですね。

 

1店舗、また1店舗となくなり、従業員がいなくなっていきました。

その結果、残ったのは多額の借金、否応なしに私は現場(現実)に引き戻さざるを得なかったのです。

そこからの私は、本職である接骨院の復活をかけて無我夢中で働きました。

偶然の打撲が一灯の道しるべに!

正直、この頃の私には楽しいことが一つもありませんでした。

ストレスで体重も増え、体調も崩し、入院もしました。

事業の失敗から尻に火が着いたように、もはや生き抜くための試練を与えられていた気がします。

多いときには26人居た従業員は2人になり、朝から晩まで60人の患者を2人でこなす日々が続きました。

3ヵ月後、1人しか居ない従業員が「辞めたい、体が続かない」と言い出しました。
無理もありませんよね。

実際このままやっていたら、私自身も続かないことを体の悲鳴から感じ取ってはいました。

そんなときでした。

呼ばれた声に反応し振り向きざま、すぐ横に立っていた柱に左腕を強烈にぶつけてしまったんです。

痛みをこらえじっと見ているとみるみる腫れあがる腕。

その時です。
この凄まじく痛い「痛みの感覚は、慢性痛の痛みとどこが違うのだろう?」という疑問が、漠然とですが頭をよぎったんです。

痛いことに慢性痛も打撲の痛みも変わりはしない、そう思った私は腫れあがる痛みの箇所に指で触れていました。

触れるだけで飛び上がるほどの痛みが強烈に脳に伝わってきたことを今でも鮮明に覚えています。

起死回生のひらめき

このままのやり方では本当に続かないことを察していた私は、退院後、まだ体がしんどい中で、どうすればいいのかを模索しました。

そこで起死回生のひらめきとなったのが、偶然の打撲です。

打撲したことをきっかけに「痛みの原理」に着目し、その痛みの処置法を確立する事に尽力しました。

 

この痛み発生の原理を見出すことで、他院ではできない痛みをゼロにする画期的な治療法自体に付加価値を見出し、患者が1日30人でも、日に100人の患者をこなすことと同等の利益を確保することができたのです。

偶然にも私自身が打撲をするという体験から痛みの概念を見出すことになりました。

 

痛みは領域(範囲)で出ていることを自身の打撲体験から導きだし、痛みのある部位には、痛みの領域(範囲)が地図状を成していることを発見しました。

そこには境界線があり、押して痛いところと、押してもまったく痛くないところの境界線が存在しているというものだった。

 

棒で押し、なぞっていくと突然痛みのある所に当たる。
そこを赤ペンで印をつける。

これを360度方向からマーキングする。

 

そしてマーキングした赤点を結ぶと見事に痛みが発生しているところが浮き上がる。

 

つまり、痛みの発生源を「見える化」することができたという事です。
その境界線の中はどこを軽く押しても病的痛みがあるのが特徴です。

 

これが痛みをゼロにする奇跡の治療法を発見するまでの経緯となります。

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